漢字書体「武英」の企画書 2/3
3 デザイン・コンセプト
「武英」は、官刻本(銅活字版)『古今図書集成』(1726年、武英殿)を参考にして、現代の日本語の活字書体(デジタルタイプ)として使用する目的で復刻・制作する。
参考:
①武英殿刊本(殿版)とは
武英殿刊本(殿版)とは、中央官庁で刊刻された一種の官刊本である。明・清を通じて一般的には内府刊本と呼ぶが、その中でも特に清朝になって皇帝の勅命により宮中の武英殿修書処で刊刻されたものが武英殿刊本(殿版)である。活字版印刷法での代表的なものとしては、雍正帝の時に銅活字を用いて印刷した『古今図書集成』や、乾隆帝時代の木活字による『聚珍版叢書』等が知られており、殿版と言えば清初のものをさすことが多い。
②『古今図書集成』とは
『古今図書集成』は、中国・清朝の康熙帝(在位:1662年-1722年)が、陳夢雷(1651年-1741年)等に命じて編纂を開始した。古今の図書から抜き出した事項を類別配列されている。康煕帝の時代の1719年(康煕58年)に完成していたが、皇位継承の紛争もあって刊行が遅れた。清朝の雍正帝の在位期間の1726年(雍正4年)になってから銅活字を用いてようやく刊行された。『古今図書集成』は、古来の典籍から同類の関係する記事を抽出して集めたものである。その構成は、まず6彙編(暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済)に大分類し、次にそれぞれの彙編を32典に分かち、さらにそれぞれの典を6,109部に細分した形式となっている。
③徳川吉宗と『古今図書集成』
『徳川吉宗と康煕帝 鎖国下での日中交流』(大庭脩著、大修館書店、1999年)によれば、『古今図書集成』の全書を持ち渡るようにとの徳川吉宗の命令は、1760年(宝暦10年)の辰一番船によって果たされ、宝暦14年1月19日に紅葉山文庫に搬入されたという。しかし徳川吉宗は、1751年(寛延4年)6月にはすでに死んでいた。この『古今図書集成』は江戸時代を通じてただ1部だけ日本に存在したそうだ。徳川吉宗は入手を命令しながらも、『古今図書集成』の明朝体を見ることはなかった。
参考としている資料:
京都大学附属図書館所蔵『古今図書集成』のうち、デジタル画像で公開されている全ページをプリントしてファイリングしたもの。
4 混植を想定する和字書体、欧字書体
和字書体:「ほくと」「あずま」「たおやめ」「たいら」
欧字書体:「K.E. Cancer-Medium」