活字書体をつくる

Blog版『活字書体の仕様書』

活字・写植・デジタルタイプ

活字というのを狭い意味で考えると、金属活字、とくに鉛の活字を思い浮かべるが、もっと広い意味でとらえると、写真植字も活字の一種である。金属活字がメタルタイプというのに対して、写真植字機を英語で言うとフォト・タイプセッティングマシンになる。フォト(写真)による、タイプセッティング(活字組版)の、マシン(機械)なのだ。DTP組版は、デジタル・タイプセッティングと言えるのではないか。DTPというとデスクトップ・パブリッシング(卓上出版)ということだが、言い換えれば、デジタル・タイプセッティング・プリプレスともとれる。

 

金属活字組版

 

活字組版(メタル・タイプセッティング)は、一個一個の活字を拾って、それを組み合わせていく。

最初は活字も一字一字手で彫っていたが、活字のもとになる父型や母型を彫刻する機械が発明された。このひとつひとつの原字も手で書いていた。手で書いていたものを、彫刻機を使って、タイプサイズごとの母型が彫れる。母型を鋳造機にセットして、鉛と錫とアンチモンという活字合金を流し込んで活字を製造する。活字を鋳造するところは今でも何社かあるので、その母型さえあれば新しい活字は製造できる。

 金属活字書体の成熟期になると、東京築地活版製造所、秀英舎をはじめ、日本国内の活字メーカーは、本文用書体として(近代)明朝体の各シリーズを揃えていった。また、ゴシック体も見出し用として順次、製造していった。ゴシック体はしだいに普及していったのに対して、アンチック体は和字書体のみの書体として、ゴシック体との混植によってのみ生き残ることとなった。

ただ現在では、父型や母型の彫刻機を使える人がいないというのと、機械自体も壊れて使えない。それでも、やろうと思えばできると思うのだが、需要がないというのと、すごい資金がかかるので、そこまでのメリットがないということで、金属活字での新しい書体は作られていない。

 

手動写真植字組版

 

和文タイプライターはこのように活字が並んでいる。一般の活字だと鉛と錫とアンチモンの合金だが、株式会社モトヤによると、タイプライター用の活字は亜鉛をベースにして銅とアルミニウムの合金ということだ。形状も少し違っていて、差し込んで動かないようになっている。

金属活字だと、同じ字種でも複数の活字を用意しなければならないので、一書体であっても壁一面が必要だったのだが、タイプライターだとひとつで済むので場所を取らない。このタイプライターの活字の集合体がフォントということである。

これをガラス製の文字盤に置き換えて、インクリボンで紙に転写する代わりに、下から光線を当ててレンズを通して印画紙に焼き付けるようにした機械が写真植字機である。タイプライターだと基本的には一種類のサイズしかできなかったが、写真植字機ではレンズを変えることによって何種類ものサイズで印字できるようになった。文字盤上はひとつのサイズということで、これもフォントといえる。

タイプライターや写植の文字盤もフォントということであって、これをデジタル化したものもフォントということだ。私はタイプフェイスとフォントとをできるだけ使い分けるようにしている。

金属活字の時代の原字は金属活字の印刷に合ったように作るし、写植の時代の原字は写植の機械に合ったように作る。金属活字の書体を写植の機械で使えるようにするためには、それなりの手を入れることが必要なので、それぞれの時代にタイプフェイスデザイナーという職種は存在しているのである。

手動写植機用の活字書体として、1930年から1935年までに、本文用の明朝体(のちの石井中明朝体+オールドスタイル小がな)、太ゴシック体(のちの石井太ゴシック体+小がな)、それにアンチック体(和字書体のみ)を制作している。

明朝体は、石井中明朝体に続いて、1951年に石井細明朝体、1959年に石井太明朝体、1960年に石井特太明朝体が発売されている。ゴシック体は、石井太ゴシック体に続いて、1937年に石井細ゴシック体、1954年に石井中ゴシック体、1961年に石井特太ゴシック体、1970年に石井中太ゴシック体が発売されている。さらに「石井横太明朝」という書体が1959年に発売されている。

手動写植書体の時代の見本帳として、『写真植字』(株式会社写研)などがある。

 

デジタルタイプ組版

 

写植の時代の書体をコンピューターで使えるようにするためには、まずデジタルデータにしなければならない。写植の機械に合わせるための工夫は、デジタルデータにするときに再検討しなければならないということになる。

 

電算写植

電算とは電子計算機の略で、コンピューターのことである。電算写植システムは、入力・編集・組版処理を行う装置と、自動電算写真植字機(出力装置)で構成される。

 光学式電算写真植字機(SAPTON)の世代

光学式電算写真植字機はガラス文字円盤に書体を収録して回転させて選字、露光する方式で、アナログタイプであるということでは手動写植機の文字盤と同じである。

本蘭細明朝体(本蘭明朝L)の開発に着手したのは、光学式電算写真植字機への移行のためであった。電算写植機の普及のためには、書籍や文庫などの本文用の明朝体を開発する必要性があったのだ。

本蘭細明朝体は、光学式電算写真植字機の弱点をカバーするために、横線を太くし、先端をカットし、交差部分には大きな食い込み処理が入れられた。ハードやソフトによって起こる、いままでに経験したことのない制約を克服して開発したのだ。

 CRT式電算写真植字機(SAPTRON)の世代

CRT式電算写真植字機はCRT(ブラウン管)からレンズ系を経て露光する方式である。書体はデジタルデータになり、その形式はランレングスフォント、ベクトルアウトラインフォント、曲線アウトラインフォントと変化していった。

本蘭細明朝体は、CRT式電算写真植字機でアウトライン・フォント(Cフォント)化されるときに、食い込み処理が埋められている。機種によって原字のデザインが変遷したのだ。

本蘭明朝のファミリー化は1985年であった。この時、本蘭細明朝体は本蘭明朝Lに改称した。本蘭明朝のファミリー構成は、本蘭明朝L、本蘭明朝M、本蘭明朝D、本蘭明朝DB、本蘭明朝B、本蘭明朝E、本蘭明朝Hの7書体である。

本蘭細明朝体が1975年に発売されたとき、そのペアとして開発されたのは、石井中太ゴシック体をそのまま拡大した「石井中太ゴシック体L」だった。

 レーザー式電算写真植字機(SAPLS)の世代

レーザー式電算写真植字機はレーザーの走査によって印字するもので、画像や写真の出力もできるようになった。

1990年ごろから本蘭明朝に対応する本蘭ゴシック・ファミリーの制作が企画されていたが、なかなか実現しなかった。1997年になって、まず本蘭ゴシックUが発売された。2000年には、本蘭ゴシックL、本蘭ゴシックM、本蘭ゴシックD、本蘭ゴシックDB、本蘭ゴシックB、本蘭ゴシックE、本蘭ゴシックH、本蘭ゴシックUの8ウエイトからなる本蘭ゴシック・ファミリーが発売された。このとき本蘭ゴシックUは全面的に改訂されている。

本蘭アンチック・ファミリーは、本蘭明朝ファミリーにつづく書体として、本蘭ゴシック・ファミリーとともに試作していた。本蘭ゴシック・ファミリーは2000年に発売されたが、本蘭アンチックが制作されることはなかった。株式会社写研大阪営業所の新しいビルディングが竣工したのは1992年10月のことであったが、このビルディングの「定礎」の文字の原図のレタリングは、当時試作していた本蘭アンチックだった。本蘭アンチックの唯一の証だ。

電算写植書体の見本帳として、『タショニム・フォント見本帳 No.5A』(株式会社写研、2001年)がある。

 

DTP

DTP時代の書体として、新しい書体がつぎつぎにに開発されている。金属活字時代の書体、手動写真植字機時代の書体もデジタルタイプ化されているが、そのままということではない。新しいハードウェア、ソフトウェアにマッチするように調整しているのである。